盛岡地方裁判所 昭和36年(わ)11号 判決 1961年7月14日
被告人 小田島正一
昭六・五・一八生 自動車運転者
主文
被告人は無罪。
理由
被告人に対する公訴事実は、
被告人は自動車運転者であるが、昭和三六年一月一〇日午后九時二分頃普通乗合自動車(岩二あ〇一一九号)を運転し、盛岡市上田線(盛岡市馬町から同市上田競馬場入口に至る)終点である盛岡市上田庚申長根七番地先の競馬場口から馬町に向い発進せんとした際約七・三メートル前方の道路左側に山屋和子(当一八年)のいるのを目撃したものであるが、前記乗合自動車の停車していた位置は道路左端から前車輪は約一・一メートル、後車輪は〇・九メートルで前記山屋が歩行しているとすれば同女とすれ違いするとき間隔が接近していて接触するおそれがあつたからよく同女の態度姿勢進路を注視しその態度、進路等に応じ安全な間隔を保つてすれ違いするようにして危険の発生を避くるに必要な方法を講じ以て接触を未然に防止すべき業務上の注意義務があるに拘わらずこれを怠り同女の態度、進路を確認することなく漫然発進したため同女に接触してその場に転倒せしめて左後車輪で轢き、因て同女を気管断裂により翌一一日午前一時二〇分頃盛岡市内丸八七番地岩手医科大学附属病院において死亡するに至らしめたものである、
というにある。
当裁判所の各検証調書、司法巡査の実況見分調書、葛西幾代の検察官に対する供述調書を綜合すると次の事実が認められる。
一、本件事故発生現場である盛岡市上田字庚申長根七番地先道路は、同市上田方面から同市黒石野方面に通ずる市道にして、直線をなし、見透しの極めてよい幅員約七・六五米、歩車道の区別のない非舗装道路であつて見透しを妨げるものはない。
二、事故の発生したのは昭和三六年一月一〇日午後九時二分頃であるが、当夜は晴天にして道路上には積雪約五糎あつてその下部は寒さのため凍結し、その表面は堅く氷つて滑り易い状態であつた。
三、現場は盛岡市の繁華街ではなく、事故発生の時刻には一時間内に自動車が数台通過するのみで、冬期夜間のことでもあり通行人も比較的少く、自動車の運行を妨げるものは殆んどなかつた。
四、現場に街灯はない。競馬場口停留所南方(本件バス進行方向)一〇数米のところにある電柱の、地上約五米のところに電気の変圧器があつて、そこに裸電灯が一個点じてあるが、右は電気の事故に対処し夜間変圧器の点検をなし得るための施設と認められ、従つて街路の照明としては充分でない、附近の商店より僅かに光が漏れる程度である。
五、本件自動車のハンドルは右にあつて、タイヤにはスリツプを防止するためチエンが巻いてあつたからスリツプの虞はなかつた。自動車にバツクミラーがあるが前記程度の照明では背後の光景がバツクミラーに映るとはにわかに認められない。
六、被告人は競馬場口停留所で一旦停車し、同所で数名の乗客を乗せ、車掌の出発合図に従い警笛を吹鳴して発車している。右発車前同停留所で停車中その左前方約七・八米(自動車バンバー中点より七・三八米)の個所にいる山屋和子を発見している。自動車は夜間でもあり当然前照灯をつけていた。
そこで考えるに、
一、本件事故発生現場のように、道路が直線にして見透しがよく道路幅員も相当あり夜間にして交通の比較的閑散な際前照灯をつけた自動車があるときは、自動車の前方数米のところを歩行するものは充分自動車に気づいていると認められる。
二、被告人は競馬場口停留所から発車するに当つて車掌の合図により、警笛を鳴らしてから発車している。
三、被告人は右停留所において一旦停車し、同所で三、四名の乗客を乗せてから発車し、未だ数米しか進行しないとき本件事故が発生したものである。そうすると当時の自動車の速度は極めて遅く、歩行者のそれと大差はない。右自動車が停留所から発車して僅かに車輪が一、二回、回転したに過ぎない箇所で事故が発生したことになる。このように遅い速度の自動車に、一八歳にも達した被害者がどうして左後車輪でひかれたのか疑なきを得ない。
四、被害者がどのような機会に、どんな状態で自動車に接触し、そして左後車輪でひかれたのか証拠上判明しない。また福田重次の供述調書等によれば被害者が左後車輪でひかれたかどうかも疑わしい。
五、被告人が被害者の着衣について記憶していたこと及び左後車輪にシヨクを感じたとしても(捜査官に対する供述調書)本件被告人に過失を認定する資料とはならない。
六、自動車の左前車輪が道路左端から一・一米左車輪が同じく〇・九米しか離れていなかつたとしても、今日の市街地の道路の状況と車輛構造、交通量とを考慮すれば自動車と必ずしも接触する程狭い幅員ではなく、まして当時の自動車の前記速度を参酌すれば充分すれ違い可能の状態にあつた。况んや前車輪がすれ違いを終了し、左後車輪と歩行者との関係は当時の照明程度ではバツクミラーにも映らないとしたら、運転者としては歩行者が自動車の側を通過するに要する時間運転を停止する外はないこととならう。しかしこのような交通閑散な時、所において、かような措置が運転者に要求されるとしたら高速度交通機関の使命は達成されないこととなる。
以上これを要するに、本件においては被告人に過失のあつたことが認められず罪とならない場合であるから刑事訴訟法第三三六条によつて無罪の言渡をするものである。
(裁判官 菅家要)